背景
抗体薬物複合体(ADC)は、特定の抗体を介して細胞傷害性薬剤をがん細胞に選択的に送達する画期的なモダリティであり、がん治療に大きな変革をもたらしています。日本の第一三共が開発した「エンハーツ」(トラスツズマブ デルクステカン)は、その高い有効性により世界中で広く採用され、同社の主力製品として売上を大きく牽引しています。しかし、ADCの製造は、抗体部分、薬物(ペイロード)、リンカーの合成、そして両者の結合(コンジュゲーション)という複数の複雑な工程を要するため、極めて高度な専門技術と厳格な品質管理が求められます。このため、ADCの製造を受託できるCMO(受託製造機関)は世界的に限られており、製薬会社は長期的な製造契約を結ぶことが一般的です。これらの契約には、しばしば最低購入義務などの条件が含まれます。
主要内容
第一三共は、2026年5月11日に発表した2025年度の連結決算において、売上収益が過去最高となる8195億円を記録し、前年比25.8%増と「エンハーツ」が引き続き好調であることを示しました。しかしながら、営業利益は前年比で31%減という大幅な減少を計上しました。この大幅な利益減少の主な原因は、抗体薬物複合体(ADC)の製造受託機関(CMO)への補償金として、1695億円という巨額の損失引当金を計上したことでした。
記事によると、この損失は、第一三共がADCの供給計画において「誤算」を抱えていたことに起因します。ADC製造の複雑性ゆえに、世界中の限られたCMOとの間で、通常は最低購入量を義務付ける長期契約が締結されます。第一三共は、当初予測していたよりも製造量を維持できなかったため、契約に違反する形でCMOへの補償金が発生したとされています。この事態は、特に高活性医薬品であるADCの製造サプライチェーンの管理がいかに複雑で、予測が難しいかを浮き彫りにしました。
影響と展望
この巨額損失の計上は、第一三共にとって財務上の大きな打撃であると同時に、企業のリスク管理体制と情報開示姿勢に対する疑問を投げかけるものとなりました。エンハーツの商業的成功にもかかわらず、サプライチェーン管理の不備が企業の収益性に直接影響を与えるという教訓を示しています。今後、第一三共は、ADC製造に関するCMOとの契約条件の見直し、需要予測の精度向上、および供給戦略の柔軟性強化に取り組む必要があるでしょう。
また、この問題は、ADCという新しいモダリティの産業化における課題を業界全体に提起します。ADC製造には特殊な設備と専門知識が必要であり、CDMOとのパートナーシップは不可欠ですが、契約条件やリスク分担のバランスが極めて重要であることが改めて認識されました。製薬企業は、ADCの強固なパイプラインを構築する一方で、それに見合う堅牢で柔軟な製造・供給体制をいかに確立するかが、今後の競争優位性を決定する重要な要素となるでしょう。この件は、バイオ医薬品製造における高度なサプライチェーン管理の重要性を再認識させる事例と言えます。

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