TECHNOLOGY EXPLAINER
エネルギーキャリア
― 「どれが優れているか」ではなく、「何を、どこまで、どの条件で比べるか」
水素は軽く、そのままでは運びにくい物質です。そこで水素を別の形に変えて運び、使う場所で戻す方法が研究されています。 この記事は、トルエンに水素を結びつけて常温・常圧の液体にする有機ハイドライド(MCH)を中心に、アンモニア、液体水素と比べる際の条件のそろえ方を整理します。 数字は、境界(どこまで含めるか)、熱の供給源、距離、規模で大きく変わります。計算には仮定をすべて書きます。

- エネルギーキャリアとは何か(3行でつかむ)
- LOHCとMCH ― 仕組みと「流体としての」密度
- 水素を取り出すには熱が要る ― 脱水素の反応熱
- 脱水素触媒 ― 素材技術者の視点①
- 実証 ― 公式資料で確認できる範囲
- 比較の考え方 ― 条件をそろえる
- 素材技術者の視点②:キャリアごとに材料へ課される条件
- 課題と、本稿で確認できなかったこと
- 用語集/参考資料/出典対応表
事実=公的機関・査読論文・企業の公表資料に記載のある内容(出典リンクあり)
本稿の計算=明示した前提をもとに本記事が算出した値
未確定/将来=計画・目標・見通しであり、実績が確認できていない事項
このほか、構造の整理や材料設計上の読み取りは「解説」として区別しています。
性能値は、条件(温度・圧力・規模)と出所とセットで示します。実験室の値を商用の値として書きません。本記事は材料・原理・評価・制度の解説であり、水素や化学品の取扱い・運用についての個別の助言ではありません。
1. エネルギーキャリアとは何か(3行でつかむ)
- 何か:水素を、運びやすい・貯めやすい形に変えたもの。圧縮ガス、液体水素、アンモニア、有機ハイドライド(LOHC:液体有機水素キャリア)、メタノールなどが候補です。
- 何が起きるのか:水素の供給地で水素を結びつけ(水素化・合成・液化)、需要地で戻す(脱水素・分解・気化)。往復にエネルギーと設備が要ります。
- 何が難しいのか:どのキャリアが優れているかは、距離・規模・熱源・どこまでをコストに含めるかで変わります。IRENAの分析も、前提を変えると有利な方式が入れ替わることを示しています[参考資料3]。
「A方式はB方式より効率が高い」という文は、境界と条件を書かなければ事実を述べていません。 Berstadらは、同じ液体水素を扱った3つの先行研究でも、仮定(特にタンクの蒸発損失)の違いでチェーン全体の効率の結論が大きく食い違うことを示しています事実[参考資料6]。
アンモニアの詳細は本シリーズ「アンモニア」編、液化と断熱は「液体水素」編、メタノールは「メタノール」編、高圧ガスは「高圧水素タンク」編で扱います。本稿は有機ハイドライドと、横断的な比較の考え方に集中します。
2. LOHCとMCH ― 仕組みと「流体としての」密度
Preuster、Papp、Wasserscheidは、LOHCを水素を含まない形と含む形の有機化合物の対で、繰り返しの接触水素化・脱水素で水素を貯める系と説明しています。水素を取り出すと、沸点の高いキャリア化合物を凝縮させたあとに純粋な水素が得られ、既存の燃料インフラが使える、というのが特長です事実[参考資料4]。
代表的なのがトルエン/メチルシクロヘキサン(MCH)の対です。トルエン(C₇H₈)に水素3分子を付加するとMCH(C₇H₁₄)になり、使う場所で水素を外すとトルエンに戻ります。 NEDOは、このMCHを海上輸送して川崎で水素を取り出し、トルエンをブルネイへ戻して再び水素と結合させる実証で、MCHは気体水素に比べ体積が500分の1になり、常温・常圧で運べると説明しています事実[参考資料8]。
水素の質量分率と、体積あたりの水素量
MCHの分子量は98.19(PubChem[参考資料9])、水素3分子分は6.048なので、水素の質量分率は6.048÷98.19=0.0616、約6.16%です本稿の計算。IRENAの表4.1では、トルエン系の貯蔵密度を6.1%としています[参考資料3]。 MCHの密度は、PubChemの記載で0.7694 g/cm³(20 ℃)なので、MCH 1 m³に含まれる水素は 769.4 kg × 0.0616 = 約47.4 kgです本稿の計算。 気体水素(0 ℃・常圧、NISTの密度0.0899 kg/m³[参考資料2])と比べると 47.4÷0.0899 = 約527倍で、NEDOの「500分の1」とほぼ整合します本稿の計算。
同じ流体の水素量では、液体アンモニアが最も多く、MCHは液体水素より少なくなります。ただしMCHは、常温・常圧の液体として既存のISOタンクコンテナや化学品タンカーで扱えるという別の長所があります[参考資料8、10]。 IRENAは、LOHCの水素含有量が質量で4〜7%と低いため運ぶキャリアの質量が大きいこと、キャリアの繰り返し使用でも1サイクルあたり0.1%の損失を補う必要があること、多くが特殊化学品で生産量が限られることを課題に挙げています事実[参考資料3]。
戻りのトルエンまで含めて考えると、水素1 kgを運ぶために動かすキャリアの質量は、MCH側で 1÷0.0616 = 約16.2 kg、返送するトルエンは 約15.2 kgです(92.14 g/mol × 1 mol ÷ (3 × 2.016 g/mol))本稿の計算。つまり「水素1 kgを往復で運ぶには、キャリア約15 kgを往復させる」という構図です(本記事による解説)。
LOHC候補の性質(IRENAの表より)
| キャリア(水素を含まない側) | 水素化の条件 | 反応熱(kWh/kg-H₂) | 水素の貯蔵密度(質量) | 引火点/沸点 |
|---|---|---|---|---|
| トルエン(MCH系) | 20 bar・200 ℃ | 9.5 | 6.1% | 4.4 ℃/111 ℃ |
| ジベンジルトルエン(DBT) | 50 bar・150 ℃ | 9.1 | 6.2% | 200 ℃/380 ℃ |
| N-エチルカルバゾール(NEC) | 50 bar・150 ℃ | 7.4 | 5.8% | 186 ℃/190 ℃ |
| メタノール | 50 bar・250 ℃ | 2.3 | 12.5% | 11 ℃/65 ℃ |
すべて事実(IRENA, Global hydrogen trade to meet the 1.5°C climate goal: Part II の表4.1[参考資料3]の転記)。IRENAの表は文献値を並べたもので、反応条件や物性は文献ごとに前提が異なり、優劣を決めるものではありません。メタノールは炭素源が必要になるなどの論点があり、本シリーズ「メタノール」編で扱います。
3. 水素を取り出すには熱が要る ― 脱水素の反応熱
IRENAは、LOHCの経済性と環境影響を左右する主要因は反応熱であり、水素化で放出される熱と脱水素に必要な熱は同量だと説明しています事実[参考資料3]。 トルエン系の脱水素熱は、IRENAの表4.1で9.5 kWh/kg-H₂です[参考資料3]。これをNISTの熱化学データから確かめます。
反応:C₇H₁₄(液体MCH)→ C₇H₈(液体トルエン)+ 3 H₂(気体)。 データ:NISTの標準生成エンタルピー(液体、25 ℃)は、MCHが−190.2 ± 1.0 kJ/mol[参考資料15]、トルエンが+12.0 kJ/mol(Rouxらの評価値、不確かさ±1.1)[参考資料16]。 前提:標準状態の反応熱のみ(実際の運転温度への昇温、未反応分、熱損失は含めない)。水素の低位発熱量は、水(気体)の生成エンタルピー−241.826 kJ/mol[参考資料17]から241.83 kJ/molとする。
反応熱= +12.0 −(−190.2)= +202.2 kJ/mol-MCH。水素1 molあたりでは 202.2 ÷ 3 = 67.4 kJ/mol-H₂。 水素の低位発熱量に対する比は 67.4 ÷ 241.83 = 約27.9%、質量あたりでは 67.4 kJ/mol ÷ 2.016 g/mol = 33.4 MJ/kg-H₂(約9.3 kWh/kg-H₂)です。本稿の計算
IRENAの9.5 kWh/kg-H₂[参考資料3]とほぼ一致します。IRENAは、LOHCから水素を取り出す熱が水素のエネルギーの30〜40%(要約の別の箇所では25〜35%)に相当すると述べています事実[参考資料3]。熱をどこから持ってくるか(廃熱か、水素や燃料を燃やすか)で、システムとしての効率は大きく変わります(Niermannらの結論と同じ構図です[参考資料5])。
脱水素は吸熱反応で、熱は反応温度(MCHでは約300 ℃台)で供給する必要があります(温度は第4章の企業発表による)。低温の廃熱では足りない場合があります。 一方、アンモニアの分解も吸熱で、同様に水素の約13%(標準状態の下限)〜IRENAの示す13〜34%のエネルギーが必要です[参考資料3]。本シリーズ「アンモニア」編の計算と並べて読んでください。
4. 脱水素触媒 ― 素材技術者の視点①
触媒学会のウェブサイトに掲載された千代田化工建設研究開発センターの発表資料は、この方式が1980年代にカナダ産水素をヨーロッパへ海上輸送する構想(ユーロ・ケベック計画)で検討されたが、長期運転が可能な安定性の高い脱水素触媒がなく実用化に至らなかったと述べています事実[参考資料11]。 同資料が報告した触媒は、細孔構造を制御したアルミナ担体に白金とカリウムを担持したものです(組成はK(0.1)-Pt(0.6)/Al₂O₃と表記)事実[参考資料11]。
| 項目 | 報告されている内容(企業の発表) |
|---|---|
| 反応条件 | 固定床、反応温度320 ℃、LHSV=2.0 h⁻¹、常圧。MCHに20 mol%以下の少量の水素を共供給 |
| 性能 | 触媒1 Lあたり毎時1 Nm³以上の水素発生。MCH転化率95%以上、トルエン選択率99.9%以上 |
| 耐久性 | 寿命試験で3,000時間以上、活性の劣化は観察されなかった |
すべて事実(千代田化工建設研究開発センターの発表資料[参考資料11]。実験室規模の固定床の結果であり、企業の発表です。商用プラントの値ではありません。脱水素触媒に関する論文で、著者に同資料と共通のY. Okada、H. Nishijimaを含む:Okadaら、Int. J. Hydrogen Energy 31, 1348 (2006)[参考資料12]。論文の本文は本稿では確認していません)
脱水素の目標は、MCHをトルエンまできれいに戻し、分解して炭素が出る副反応を抑えることです。トルエン選択率99.9%以上という数字は、副生成物が0.1%未満という意味で、ここが外れるとキャリアが減る(IRENAの言う1サイクル0.1%の損失[参考資料3]に直結する)ことと、触媒への炭素の堆積が進むことにつながります(本記事による解説。副反応の内訳は発表資料からは確認していません)。 担体は細孔構造を制御したアルミナと報告されており、担体の細孔・酸性と、白金の分散・助触媒のカリウムが設計の要点になると読めます(推測。各因子の寄与は発表資料では確認できません)。 白金は白金族金属で、資源・価格の制約を受けます。この論点は本シリーズ「白金族金属と触媒」編で扱います。
水素の品質については、NEDOの制度説明資料(2025年6月26日)が、水素品質に関する研究開発の成果例として、MCHから得た水素に、水素発電へ影響するガム状物質の発生が無いことを確認したとしています事実[参考資料14]。 水素の純度・不純物の規格(ISO 14687など)との関係は、本稿では確認していません。

5. 実証 ― 公式資料で確認できる範囲
ブルネイ→川崎の国際サプライチェーン実証(NEDO・AHEAD、2020年)
NEDOは2020年6月25日、次世代水素エネルギーチェーン技術研究組合(AHEAD)とともに、トルエンを水素キャリアとする有機ケミカルハイドライド法で、世界初となる国際間の水素輸送の実証を本格的に開始したと発表しました事実[参考資料8]。 ブルネイでMCHを生成し、コンテナで海上輸送、川崎市内の脱水素プラントで水素を分離して東亜石油の水江発電所のガスタービンに供給し、水素を取り出したあとのトルエンをブルネイへ戻して再びMCHにする、という一連の流れです。2020年4月に川崎側の脱水素プラントが稼働し、5月に水素をガスタービンへ供給し始め、6月にトルエンをブルネイへ戻して再水素化を始めた、とNEDOは記載しています[参考資料8]。
- 規模:水素輸送能力は、フル稼働時で年間210トン(燃料電池自動車約4万台の満充填に相当)、チェーン運用期間は2020年の1年間事実[参考資料8]。
- 輸送:2020年の実証では、24 kLのISOタンクコンテナでMCHを運んだ事実(AHEAD構成企業の発表[参考資料10])。
- 評価:NEDOは、これまで困難とされてきたMCHの大規模な脱水素処理技術を開発したと述べています事実[参考資料8]。実証の効率やコストの数値は、確認した発表文に記載がなく、本稿では扱いません。
その後の動き
- 製油所での利用の試験計画:2021年8月、AHEADの構成企業(千代田化工建設、三菱商事、三井物産、日本郵船)はENEOSと、ブルネイ産水素をMCHで供給する製油所の脱炭素化試験の合意を発表しました。実証ではより大きな1万DWT級の化学品タンカーを使う計画とされています未確定/将来[参考資料10]。
- グリーンイノベーション基金:NEDOの「大規模水素サプライチェーンの構築」は、水素キャリアの液化水素とMCHによる大規模サプライチェーンの商用化事業などを対象とし、予算上限3,211.2億円、2030年の水素供給コスト30円/Nm³、2050年に20円/Nm³以下を目指しています未確定/将来(目標)[参考資料13]。
- 水素社会構築技術開発事業(2014〜2025年度)の成果(NEDOの資料):有機ハイドライドのサプライチェーンについて、水素化/脱水素の反応器のスケールアップの設計手法を確立し、実証設備の反応器設計に反映した、とされています事実[参考資料14]。
確認できなかったこと:基金事業の商用規模のMCHプラントが稼働している事実は、確認した公式資料には見当たりませんでした。ドイツ等のDBT系の実証計画は、IRENAの報告に記載があるものの、2022年時点の計画で、本稿では現在の状況を確認していません。
6. 比較の考え方 ― 条件をそろえる
水素の運び方を比べる議論は多いのですが、結論が割れる原因の多くは前提のずれです。ここでは、一次情報が示す「ずれの原因」を整理します。
原因1:境界(どこからどこまでを含めるか)
Berstadらは、液体水素を扱った3つの先行研究を比べ、仮定と境界(バッテリーリミット)がそろっておらず、長距離輸送のチェーン全体の効率が大きく食い違うこと、その主因が液体水素タンクの蒸発損失率(ボイルオフ率)の仮定にあることを指摘しています事実[参考資料6]。 同論文は、球形タンクの大きさと蒸発損失率の実績、さらに大型化・低損失化の見通しも整理しています[参考資料6]。
原因2:熱の供給源と距離
Niermannらは、グリーン水素を供給地から輸送してドイツ国内で分配する鎖で、LOHCと圧縮水素のパイプライン、液体水素船などを比べ、距離と、脱水素の熱をどう供給するかが費用性能を左右すること、廃熱が使えればDBTやトルエンが効率・コストで有利になりうること、どの輸送手段もすべての状況で優位とは言えず、長距離ではLOHCが、短距離ではパイプラインが低コストになりうることを報告しています事実[参考資料5]。 同じ著者らは、定義した工程鎖でのLOHCの技術経済分析も発表しています(2019年、題名と掲載誌のみ確認[参考資料7])。
原因3:規模・距離・技術の進み方(IRENAの分析)
IRENAは、パイプライン、アンモニア、液体水素、LOHCを比べ、輸送コストを決める主な要因を製造設備の規模と輸送距離とし、2050年の想定では、パイプラインは短距離、多くの組み合わせでアンモニアの船輸送が最も有利、液体水素は限られた役割で、技術の進歩が遅いケースではLOHCが小規模な事業で有利になりうる、と整理しています事実[参考資料3]。 2030年に商用化へ移る段階で有望なのはアンモニアとLOHCで、輸送コスト(水素製造を除く、1万km)は2.5〜4.5 USD/kg-H₂という推計も示されています[参考資料3]。 これらは将来の技術進歩と規模の想定にもとづくモデル分析であり、実績の値ではありません(本記事による注記。IRENA自身も、楽観ケースと悲観ケースを分けています)。
「同じ単位」で並べる ― ただし境界は別物
キャリアごとに、水素を戻す・作る工程で使うエネルギーを、水素の低位発熱量に対する%でそろえて並べます。これは並べて眺めるための整理であり、優劣を決める表ではありません。熱で与えるか電力で与えるか、反応の前後で何が含まれるかが違います。
前提:300 K・常圧(0.101325 MPa)の気体水素から、常圧の飽和液体(沸点20.369 K)へ、可逆的に液化する最小仕事。周囲温度300 K。物性はNISTの水素(通常水素)の値[参考資料2]で、オルト-パラ転換のエネルギーは含まない。
気体(300 K・常圧)のエンタルピー3958.3 kJ/kg、エントロピー53.464 kJ/(kg·K)、飽和液体(NISTの基準でエンタルピー0、エントロピー0)。最小仕事= ΔH − T₀ΔS = −3958.3 + 300 × 53.464 = 12,081 kJ/kg = 約3.36 kWh/kg。水素の低位発熱量33.3 kWh/kgの約10.1%です。本稿の計算
DOEのプログラム記録(2019年)は、入口圧力20 bar、可逆(カルノー)過程の理論最小値を2.88 kWh/kgとし、現行の産業用液化装置は10〜20 kWh/kgだと記しています事実[参考資料18]。欧州のIDEALHYプロジェクトの論文は、運転中の最良の液化装置で約11 kWh/kg、設計中の大型装置の目標は7 kWh/kg未満としています事実(設計目標は未確定/将来)[参考資料19]。 同じ「理論最小値」でも、入口圧力などの前提で2.88と3.36に分かれます。
そろえるべき条件のチェックリスト(本記事による解説)
- 境界:変換から再変換までか、水素の製造から最終利用までか(図5)。
- 最終用途:アンモニアは分解せず直接使えば再変換が不要になる(IRENAもこの点を指摘[参考資料3])。逆に純水素が必要なら精製・昇圧まで含める。
- 熱源:吸熱工程の熱を廃熱で賄うのか、水素や燃料を燃やすのか。
- 規模と距離:IRENAは2つを主要因とする[参考資料3]。
- 損失:液体水素の蒸発損失、LOHCの1サイクル0.1%の損失、アンモニアの合成・分解のロス。
- 在庫・戻り便:LOHCは往復分のキャリアの在庫が必要(IRENAは「高い初期コスト」を指摘[参考資料3])。
- 成熟度:実証、設計、将来の想定のどれか。数字の出所の種別(公的機関・査読論文・企業)。
7. 素材技術者の視点②:キャリアごとに材料へ課される条件
どのキャリアも、水素の取扱いの難しさを別の場所に移す側面があります(本記事による解説)。確認できた条件を並べます。
| キャリア | 保管・輸送の状態 | 材料にかかる主な条件(確認できた範囲) | 出所 |
|---|---|---|---|
| 高圧水素ガス | 15〜75 MPa級の圧縮水素(70 MPa・15 ℃で40.2 kg-H₂/m³) | 高圧に耐える容器材料。詳細は本シリーズ「高圧水素タンク」編「CFRPと複合材料」編 | 千代田化工の発表資料[参考資料11]、NIST[参考資料2] |
| 液体水素 | 20.4 K(約−253 ℃)。70.8 kg-H₂/m³ | 極低温の材料、断熱、蒸発損失。詳細は「液体水素」編 | NIST[参考資料2] |
| アンモニア | −33 ℃(常圧)または20 ℃で約0.86 MPa | 毒性、応力腐食割れ、NOx。詳細は「アンモニア」編 | NIST[参考資料1] |
| MCH/トルエン | 常温・常圧の液体 | 引火性の液体(IRENA表のトルエンの引火点4.4 ℃、沸点111 ℃)。脱水素側は高温の反応器と貴金属触媒 | NEDO[参考資料8]、IRENA[参考資料3]、千代田化工の発表資料[参考資料11] |
| DBT(ジベンジルトルエン) | 常温・常圧の液体 | 引火点200 ℃、沸点380 ℃(IRENA表)。水素化は50 bar・150 ℃とされる | IRENA[参考資料3] |
すべて事実。ゴム・樹脂(シール、ホース)とトルエン/MCH、DBTの適合性は、本稿では一次情報を確認できず記載していません。
8. 課題と、本稿で確認できなかったこと
- 水素化側のエネルギーと設備:水素化は発熱で熱を回収できる余地がありますが、回収の実績や効率は確認していません。
- 脱水素の熱源:実証で熱をどう賄ったか、効率の数値は確認した発表文に記載がありませんでした。
- 商用規模のMCHプラント:稼働している事実を確認できる公式資料は見当たりませんでした。基金事業の目標は未確定/将来です。
- 水素の純度規格との関係:MCHから得た水素の品質の詳細(ISO 14687などの規格との対応)は確認していません。
- キャリアの調達:IRENAは、多くのLOHCが特殊化学品で、トルエンも石油精製に依存するため、持続可能な調達経路の確立が課題だと指摘しています[参考資料3]。
- コスト:水素の輸送コストの数値は将来想定のモデルで、本稿は掲載を最小限にしています。
- 材料の適合性:トルエン/MCHとシール材の適合性、トルエンの取扱規制は確認していません。
9. 用語集
- エネルギーキャリア
- 水素を運びやすい形に変えた物質。アンモニア、液体水素、MCHなど。
- LOHC
- 液体有機水素キャリア。水素を含まない形と含む形の有機化合物の対で、水素化と脱水素を繰り返す。
- MCH
- メチルシクロヘキサン(C₇H₁₄)。トルエンに水素3分子を付加したもの。
- DBT
- ジベンジルトルエン。LOHCの候補の一つ。
- 脱水素
- キャリアから水素を取り出す吸熱反応。熱が必要。
- 低位発熱量(LHV)
- 燃焼で生じる水蒸気の凝縮熱を含めない発熱量。水素は119.96 MJ/kg。
- ボイルオフ(蒸発損失)
- 外部からの入熱で、液体の一部が気化する現象とその量。
- 境界(バッテリーリミット)
- 比較や評価で、どこからどこまでを対象に含めるかの範囲。
- AHEAD
- 次世代水素エネルギーチェーン技術研究組合。千代田化工建設、三菱商事、三井物産、日本郵船が設立。
- LHSV
- 液空間速度。触媒量に対する液体の供給量の比で、触媒の処理能力の目安。
10. 参考資料(一次情報)
- NIST NIST Chemistry WebBook, Thermophysical Properties of Fluid Systems — Ammonia — webbook.nist.gov
- NIST NIST Chemistry WebBook, Thermophysical Properties of Fluid Systems — Hydrogen(飽和物性・等温物性) — webbook.nist.gov
- IRENA Global hydrogen trade to meet the 1.5°C climate goal: Part II – Technology review of hydrogen carriers(2022) — irena.org
- Preuster ら Liquid Organic Hydrogen Carriers (LOHCs): Toward a Hydrogen-free Hydrogen Economy, Acc. Chem. Res. 50, 74–85 (2017) — doi.org/10.1021/acs.accounts.6b00474
- Niermann ら Liquid Organic Hydrogen Carriers and alternatives for international transport of renewable hydrogen, Renew. Sustain. Energy Rev. 135, 110171 (2021) — doi.org/10.1016/j.rser.2020.110171
- Berstad ら Liquid hydrogen as prospective energy carrier: A brief review and discussion of underlying assumptions applied in value chain analysis, Renew. Sustain. Energy Rev. 154, 111772 (2022) — doi.org/10.1016/j.rser.2021.111772
- Niermann ら Liquid organic hydrogen carriers (LOHCs) – techno-economic analysis of LOHCs in a defined process chain, Energy Environ. Sci. 12, 290–307 (2019) — doi.org/10.1039/C8EE02700E
- NEDO 世界初、水素を輸送する国際実証試験を本格開始(2020年6月25日) — nedo.go.jp
- 米国NIH(PubChem) Methylcyclohexane(化合物ID 7962) — pubchem.ncbi.nlm.nih.gov
- 三井物産(AHEAD構成企業) AHEAD to Support Decarbonization at Petroleum Refineries Through MCH Hydrogen Supply Chain from Brunei(2021年8月10日) — mitsui.com
- 千代田化工建設 有機ケミカルハイドライド法脱水素触媒の開発(触媒学会ウェブサイト掲載の発表資料、PDF) — catsj.jp
- Okada ら Development of dehydrogenation catalyst for hydrogen generation in organic chemical hydride method, Int. J. Hydrogen Energy 31, 1348–1356 (2006) — doi.org/10.1016/j.ijhydene.2005.11.014
- NEDO グリーンイノベーション基金「大規模水素サプライチェーンの構築」 — green-innovation.nedo.go.jp
- NEDO 制度の説明(公開版)「競争的な水素サプライチェーン構築に向けた技術開発事業」(中間評価)資料3(2025年6月26日) — nedo.go.jp
- NIST NIST Chemistry WebBook — Methylcyclohexane(生成エンタルピー) — webbook.nist.gov
- NIST NIST Chemistry WebBook — Toluene(生成エンタルピー) — webbook.nist.gov
- NIST NIST Chemistry WebBook — Water(生成エンタルピー) — webbook.nist.gov
- 米国DOE DOE Hydrogen and Fuel Cells Program Record 19001: Current Status of Hydrogen Liquefaction Costs(2019年9月9日) — hydrogen.energy.gov
- Seemann ら(IDEALHY) Efficient Large Scale Hydrogen Liquefaction, 4th European PEFC and H2 Forum 2013, B1304 — idealhy.eu
11. 主張と出典の対応表(監査)
| 本文の主張 | 根拠 | 区分 |
|---|---|---|
| LOHCは水素を含まない形と含む形の有機化合物の対で、繰り返しの水素化・脱水素で水素を貯め、水素を取り出すと凝縮後に純粋な水素が得られ、既存の燃料インフラを使える | Preuster・Papp・Wasserscheid(2017)の要旨[参考資料 4]https://doi.org/10.1021/acs.accounts.6b00474 | 事実 |
| MCHは気体水素に比べ体積が500分の1になり、常温・常圧で運べる。2020年の国際実証の流れ、2020年4〜6月の経過、輸送能力210トン/年(約4万台相当)、運用期間2020年の1年間、大規模脱水素技術の開発 | NEDO発表[参考資料 8]https://www.nedo.go.jp/news/press/AA5_101322.html | 事実 |
| 2020年の実証が24 kLのISOタンクコンテナを使ったこと、2021年8月のENEOSとの製油所向け試験の合意、1万DWT級の化学品タンカーを使う計画 | 三井物産(AHEAD構成企業)の発表[参考資料 10]https://www.mitsui.com/jp/en/topics/2021/1241738_12171.html | 事実/計画 |
| MCHの分子量98.19、密度0.7694 g/cm³(20 ℃) | PubChem[参考資料 9]https://pubchem.ncbi.nlm.nih.gov/compound/7962 | 事実 |
| 気体水素(0 ℃・常圧)0.0899 kg/m³、液体水素、高圧ガスの密度 | NIST[参考資料 2]https://webbook.nist.gov/cgi/fluid.cgi?ID=C1333740&Action=Page | 事実 |
| アンモニアの液体密度(−33.3 ℃、常圧) | NIST[参考資料 1]https://webbook.nist.gov/cgi/fluid.cgi?ID=C7664417&Action=Page | 事実 |
| IRENAの表4.1:トルエン・DBT・NEC・メタノールの水素化条件、反応熱、貯蔵密度、引火点・沸点 | IRENA[参考資料 3]https://www.irena.org/-/media/Files/IRENA/Agency/Publication/2022/Apr/IRENA_Global_Trade_Hydrogen_2022.pdf | 事実 |
| 反応熱が水素化と脱水素で同量であること、LOHCの含有量4〜7%、1サイクル0.1%の損失、脱水素の熱が水素のエネルギーの25〜35%(別の箇所で30〜40%)、アンモニア分解13〜34%、液化は少なくとも25%(別の箇所で30〜36%) | IRENA[参考資料 3]https://www.irena.org/-/media/Files/IRENA/Agency/Publication/2022/Apr/IRENA_Global_Trade_Hydrogen_2022.pdf | 事実 |
| 輸送コストの主要因が規模と距離であること、2050年の想定で有利な方式、2030年の輸送コスト2.5〜4.5 USD/kg-H₂(1万km、水素製造を除く)、楽観と悲観のケース | IRENA(モデル分析)[参考資料 3]https://www.irena.org/-/media/Files/IRENA/Agency/Publication/2022/Apr/IRENA_Global_Trade_Hydrogen_2022.pdf | 事実/将来の想定 |
| MCHとトルエンの標準生成エンタルピー(液体:MCH −190.2 ± 1.0、トルエン +12.0 kJ/mol) | NIST Chemistry WebBook[参考資料 15]https://webbook.nist.gov/cgi/cbook.cgi?ID=C108872[参考資料 16]https://webbook.nist.gov/cgi/cbook.cgi?ID=C108883 | 事実 |
| 水(気体)の標準生成エンタルピー −241.826 kJ/mol | NIST Chemistry WebBook[参考資料 17]https://webbook.nist.gov/cgi/cbook.cgi?ID=C7732185 | 事実 |
| ユーロ・ケベック計画で検討されたが長期安定の脱水素触媒がなく実用化されなかったこと、K(0.1)-Pt(0.6)/Al₂O₃の条件(320 ℃、LHSV 2.0 h⁻¹、常圧)、MCH転化率95%以上・トルエン選択率99.9%以上、3,000時間以上劣化なし、圧縮水素15〜75 MPa | 千代田化工建設の発表資料(実験室規模)[参考資料 11]https://catsj.jp/wp/wp-content/uploads/2004/09/94_3.pdf | 事実 |
| 脱水素触媒に関する論文が存在すること(題名・掲載誌・巻頁。著者にY. Okada、H. Nishijimaを含む) | Okadaら(2006)[参考資料 12]https://doi.org/10.1016/j.ijhydene.2005.11.014 | 事実 |
| グリーンイノベーション基金「大規模水素サプライチェーンの構築」の内容、予算上限3,211.2億円、2030年30円/Nm³・2050年20円/Nm³以下の目標 | NEDO GI基金ページ[参考資料 13]https://green-innovation.nedo.go.jp/project/hydrogen-supply-chain/ | 事実/目標 |
| 水素社会構築技術開発事業の成果(反応器スケールアップの設計手法)、MCHからの水素にガム状物質の発生が無いこと | NEDO制度説明資料[参考資料 14]https://www.nedo.go.jp/content/800029213.pdf | 事実 |
| 液体水素を扱う3つの先行研究で仮定と境界がそろわず、効率の結論が食い違うこと、主因が蒸発損失率の仮定であること | Berstadら(2022)の要旨[参考資料 6]https://doi.org/10.1016/j.rser.2021.111772 | 事実 |
| 脱水素の熱の供給方法と距離が費用性能を左右し、どの輸送手段もすべての状況で優位でないこと | Niermannら(2021)の要旨[参考資料 5]https://doi.org/10.1016/j.rser.2020.110171 | 事実 |
| LOHCの技術経済分析の論文が存在すること(題名・掲載誌) | Niermannら(2019)[参考資料 7]https://doi.org/10.1039/C8EE02700E | 事実 |
| 理論最小の液化エネルギー2.88 kWh/kg(20 bar入口)、現行の産業用液化装置10〜20 kWh/kg、液体水素は99%超がパラ水素 | DOEプログラム記録19001[参考資料 18]https://www.hydrogen.energy.gov/pdfs/19001_hydrogen_liquefaction_costs.pdf | 事実 |
| 運転中の最良の液化装置が約11 kWh/kg、設計中の大型装置の目標が7 kWh/kg未満 | Seemannら(IDEALHY、2013)[参考資料 19]https://www.idealhy.eu/uploads/documents/IDEALHY_EFCF-2013_Efficient_Large_Scale_Hydrogen_Liquefaction_web.pdf | 事実/設計目標 |
| MCHの水素質量分率6.16%、47.4 kg-H₂/m³、気体水素の約527倍、キャリア16.2 kg・戻りトルエン15.2 kg/kg-H₂、脱水素熱 +202.2 kJ/mol(27.9%、9.3 kWh/kg)、理想液化仕事3.36 kWh/kg(10.1%)、アンモニアの121.0 kg-H₂/m³ | 本稿の計算(前提は各所に明記)。参照値はNIST[参考資料1、2、15〜17]、PubChem[参考資料9] | 本稿の計算 |
| 境界の取り方による結論の変化、そろえる条件のチェックリスト、触媒の選択率の読み取り、キャリア選択と材料条件の対応 | 本稿の解説(一次情報で確認した事実に基づく読み取り) | 解説 |
| 商用規模のMCHプラントの稼働、脱水素の熱源の効率、水素の純度規格との対応、シール材の適合性、トルエンの取扱規制 | 本稿の調査範囲では公開された一次情報で確認できなかった事項(記載していない) | 解説 |
| 図1・図4がAI生成イメージであり、図2・図3・図5・図6が説明のための作図であること | 本記事による注記 | 解説 |
最終更新:2026年10月5日/出典は一次情報(NEDO、IRENA、DOE、NIST、査読論文、企業の公表資料)に限定しています。 商用規模のMCHプラントの稼働、脱水素の熱源の効率、水素の純度規格との対応、シール材の適合性、トルエンの取扱規制は、公開された一次情報で確認できなかったため記載していません。 図2・図3・図5・図6はベクター作図、図1・図4はAI生成イメージであり、いずれも実在の設備・プラントを示すものではありません。 本記事は材料・原理・評価・制度の解説であり、水素や化学品の取扱い・運用の助言ではありません。